ニューシネマパラダイス
NUOVOCINEMAPARADISO
 
1989年製作 上映時間124分 製作国 伊=仏 初公開年月89.12 リバイバル→-95.12 監督・・・・ジュゼッペ・トルナーレ GiuseppeTornatore 製作・・・・フランコ・クリスタルディ 脚本・・・・ジュゼッペ・トルナーレ 撮影・・・・ブラスコ・シュラート BlascoGiurato 音楽・・・・エンニオ・モリコーネ EnnioMorricone
美術・・・・アンドレア・クリザンティ キャスト・・フィリップ・ノワレ PhilippeNoiret       サルヴァトーレ・カシオ SalvatoreCasio       マリオ・レオナルディ       ジャック・ペラン JacquesPerrin       アニェーゼ・ナーノ       ブリジット・フォッセー       アントネッラ・アッティーリ
アカデミー賞 1989年 外国語映画賞  受賞 カンヌ国際映画祭 1989年 審査員特別賞 受賞 ゴールデン・グローブ 1989年 外国映画賞  受賞

 映画が語る、映画の自叙伝
 昔から「名画の中の名画」「観るべき作品の筆頭に挙がる」とかなんとか言い尽くされてきたこのニューシネマパラダイスだが、今の今まで(2000年1月)まで観る機会がなかった。先入観という物は恐ろしいもので、宣伝CMのフィルムだけしか観ていない僕には「老人と海」ならぬ「老人と映画」の様な内容で、映画を通じておじさんと子供が交流を温める作品だとばかり思っていた。しかし、この作品の持つ内容はそれだけには留まらず、サルバトーレ(トト)の人生史でもありながら、なおかつ映画の自叙伝でもあったのだ。
 マンガの自叙伝といえば藤子Fさんの「まんが道」が有名だね。自らの体験に基づいているストーリーの持つ現実味と、精一杯頑張って漫画家として成長してゆく作者の姿が読者に勇気を与えてくれる作品だった。このニューシネマパラダイスにも「まんが道」の様に、「ある特定のメディアと共に成長していった男の人生」という主題で貫かれていると思う。
 まず、率直に言ってこの映画を観て自分が日本人である事を実感させられた。一つは教会の在り方だ。なにしろ、映画館の前身は教会であったのだ。皆が集うという点では教会も映画館も同じ存在かもしれない。教会は口頭ではあるが情報を伝達し、歌を歌い、食物を共有して、お布施(入場料)を払う。更に香を薫く所は映画館をも超えているとは思うが、特定の空間に人を集めて、音や絵でエンターテイメントしてくれるという点では教会も映画館も相似点があるだろう。
 そして、イタリア人(シチリア人?)ならではの陽気な立ち振舞いである。映画館に来る観客には濃いスタイルを持った人たちがやってくる。この世にいるだけ全ての観客が、このシネマパラダイスにやって来たのではないのだろうか、と思う位だ。ストーリーを大声で解説する奴、大いびきをかきながら寝ている奴、その寝ている観客にイタズラする奴、二階席から一階席に唾を吐く資本家、オナニーしているのから、セックスしているカップルまでいる。そして、そんな濃い人たちが集まっていながらも映画を観ながらのリアクションを共有しているのだ。悲しいシーンは皆で泣き、楽しいシーンは皆で笑う。まさに一種のパラダイスな環境であったし、それをこの作品は丁寧に映像に刻みこんでいる。
 トルナトーレ監督作品では記憶の扉海の上のピアニストでも人生を映画で語る。僕は完全版は観ていないが、完全版だとサルヴァトーレの人生に焦点があたっているようだ。僕が観たバージョンは「映画史を駆け抜けたサルヴァトーレ」といった風情だね。2つのバージョンの差は大きいらしく人によっては完全版は「メロドラマ」と評していたり、別な人は完全版こそが本来の姿と絶賛してみたりという感じだ。


自らの人生を投影する事ができる映画

 「あなたはどんな子供でした?」と聞かれて、誰もが一様に複雑な思いに捕われるだろう。精一杯子供時代を満喫した人も、嫌な思い出をたくさん抱え込んでいる人も、いつの日か子供時代を振り返る時が来る。この映画はそのきっかけを与えてくれるだろう。僕は子供時代を思い起こし、それに対して反省してかしこまるよりも、ただ記憶のノスタルジーが胸を満たすのみだ。身の回りに自らの幼少の時に世話になった人物が居れば、その人と長い時間を共有しという事だけで、親密さを感じるようにもなる。恩義があればなんとなく、それを返そうと思ったりもする。
 確かに僕でも誰でも今まで生きてきたからこそ、ここに存在して相も変わらず日常に追われたり思い悩んだりを繰り返している。そんな僕たちに、もはや「幼少の失われた時」は記憶を辿る旅行先の一つに過ぎなくなってしまっているのだ。僕はサルヴァトーレの様に賢く立ち振る回った訳でもない。でも、サルヴァトーレの精一杯生きる姿を応援したくなるのも、自らが出来なかった事を無意識に託しているのだと思う。
事故を経て映写技師アルフレートは視力を失う。しかし、そんなアルフレートをサルヴァトーレは師事し続ける。アルフレートはサルヴァトーレにとって単なる映写技師としての師匠から人生の師匠へと変貌している。この事はこの映画の基幹をなす部分だ。後にアルフレートはサルヴァトーレにシチリア島を去って新天地で勝負するように強く諭す。アルフレートだってサルヴァトーレには居て欲しいはずだ。でもサルヴァトーレは「人生の師匠」としての役割を立派に果たす。
人生の師匠を得られた人は羨ましいと、僕は思った。
サルヴァトーレはマリアと恋に落ちる。落ちるというよりも苦難を超えて成就させるといった方があっているだろう。恋愛の時の数々のエピソードは古典的な物かもしれないが、映像としてみてこの作品自身が名画として祭り上げられる程のインパクトのあるものになっている。僕の特に気に入っているのはサルヴァトーレがマリアの家の下で待ちつづけて遂に新年を迎えるが、アリアは無視しつづけ、サルヴァトーレが通りの家々から新年祝いの為に投げたビンが降り注ぐ中、とぼとぼと帰路につく所だ。
 結局、サルヴァトーレはローマで映画監督として成功する。このことはジュゼッペ・トルナトーレ監督自身の自叙伝としての側面も兼ね備えているのだろう。成功者サルヴァトーレの帰郷の際の落ち着いた物腰と、回想に時間を費やすいくつかのカットは、観客を同様に自らの人生回顧の案内をしてくれている。そして、僕なり皆さんなりが、この映画に自らをそれぞれ投影してみて、この映画が終わるのだと思う。




とかなんとか書いてきましたが、はっきりいって、僕の駄文を読むよりもさとなおさんのページを読むほうが為になるでしょう。



さとなおさんのページのトッピクス
*青い目の女というのは北部イタリア人、つまり支配階級の女という意味。
*映写技師アルフレードが扱っている映写機がずいぶん現実と違うらしい。
*ラストシーンで映写する映写技師の役は監督トルナトーレ。当時弱冠33歳。

ジュゼッペ・トルナトーレ最新作
海の上のピアニスト