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僕たちに出来ることは何があるのだろうか?
今こそ「今、そこにいる僕」を語る ティーンエイジャーの人たちへぜひとも見てほしい作品 ![]() 「今、そこにいる僕」が放映されるまでのアニメ界の状況
僕が中学生になった1984年頃が日本アニメの最も爛熟した時期であった。映像表現においてはその後も著しく成長を遂げたが、おおよそストーリーアニメとしての完成度はかなりの高まりをみせていた。その頃には中学生になったという自負心から、アニメオタク稼業を自主的に廃業した。今から思い起こせば、あの選択は失敗だったと反省している。どのみち、教育システムの主流のレールからこぼれてしまうなら、徹底的にオタク稼業を極めておいた方が後の人生が豊かになったのではなかろうかと、今になって思うからである。そして、1994年放映のV Gundamからアニメオタクへ再参入をした。あのV Gundam自体は宗教国家の危険性を描くという主題で貫かれていた。放映当初はそれほどのインパクトは無かったが、後の教祖麻原彰晃が(水俣病患者である彼がチッソの有機水銀たれ流しを故意に見逃してきた監督5官庁に対するルサンチマンが動機という説がある)引き起こしたオウム真理教団のサリン事件の発生や創価学会の政治支配の進展を見て、富野監督の意図するところがようやっと理解出来たのである。また、従来の富野アニメのアムロ・レイやカミーユ・ビダンの様に性格に陰影を持つ主人公とは対照的な一本気なウッソ・エヴィンという人物像は新鮮だった。しかし、全体的に作り込みは甘く、富野アニメとしての系譜を埋める作品でしかなかった。とはいえ、後にEvangelionの庵野秀明監督が語っている所によれば、V Gundamが「不思議の海のナディア」の後に4年間の沈黙を続ける状態を打ち破る作品であったと述べている。 そして、1997年にあのNeon Genesis Evangelion「新世紀エヴァンゲリオン」が放映された。高千穂遥氏は広告代理店及びテレビ局にアニメ作品のプロットを提示して、その作品の放映枠を取るには「美少女・メカ・SF」の3つが必要条件であると述べている。そういった意味においてはEvangelionはよくありがちな学園を基礎にすえて、美少女・メカ・SFの世界観が飛び交うという舞台設定においてはよくあるアニメの1つであった。だが、当時のアニオタ諸氏のど肝を抜いたのは、いわゆるロボットが従来のサンライズ系のガンダム等の作品の様に無機質な存在ではなく、生命科学と結びついた存在である事に始まり、際だったキャラクター設定やら、カラバの樹(the Kabbalistic Tree)に象徴される古来のビジュアルやら、数多くの現代芸術の影響を受けた、アニメらしからぬ高い映像技巧の数々が眼前に展開する満艦彩色の作品の出来具合である。また、主人公碇シンジのナイーブさと内面心理を映像化し、グルイズムの頂点を極めた父・碇ゲンドウの性格とその周辺の人的関係の複雑さは観客を当惑させてもて遊ぶのに十分な要素を持っていた。しかし、20話を持って庵野監督は実質降板状態になり、21話から26話はバンクシステムフル稼働のよくあるTVアニメレベルに堕ちてしまった。最終回となる26話には「トップを狙え!」並の大円団の幕引きが待っていると信じている者たちの中には、磐梯山の観測所(テレビ東京系列での放送の為、福島では放映されなかった)まで登山してその時を待った。そして、放映された内容は今までの出来事を実質夢オチで片づけてしまった。主人公・碇シンジががその他のすべての登場人物に囲まれて祝福されて、それに対してシンジが「みんな、ありがとう」と謝意を表して終わってしまい、ストーリー・アニメとしての破綻を決定づけてしまった。後に劇場版でまさに補完される事になるが、結末は対照的で、作中の人物は殆ど死に絶えて、シンジと戦闘パートナーのアスカが別世界に取り残されて・・・、逆アダムとイブ的なエンディングであった。宮崎駿氏はEvangelionの劇場版を「親しい以外の人間は全部死んでしまえという欲求を満たす映画」と散々に酷評した。何はともあれEvangelionはアニメーションが世間を巻き込んだ一大ムーブメントを巻き起こした、僕はそのことを高く評価している。あの一時に限って言えば、あたかもアニメこそが日本文化の中心である幻想に酔えたのである。 エヴァンゲリオンは従来のアニメや他の芸術へのオマージュの集積体でもありながら、一つの新しい表現世界を残していった。それは脚本家の山口宏氏が登場人物の内面心理を克明に映像化して、表層に現れる喜怒哀楽とは別の世界を対外的に見せる手法を強く打ち出した事である。それは、「ベターマン」でより一層磨きがかけらた。「ベターマン」は他作品には見られない程に多くの時間を深層心理世界の映像に割いていた。確かに、皆が個性をもっていて、それを支える内面心理も複雑で、まさに創造物を彩るのにはうってつけの素材である。「2001年宇宙の旅」で見られた「スタンリー・キューブリック監督の意図した見たことも無いような映像」を作る事がコンピューター画像処理の進展によって容易になったのも、アニメ作品で内面心理を描く頻度が上がっている要素の一つなのだろう。しかし、内面心理世界の描写の拡大は作品の1本の幹で構築するストーリー性を疎外するという負の側面も持つ。作品が構築した世界がパラレル化して、ストーリーは複雑化する。先進的試みを実現した作品として「ベターマン」は評価されるとは思う。しかし、決してマス・マーケットを対象とした、メインストリームを歩む作品足りえないのである。 ![]() 何はともあれ、Evangelionはアニメーションバブルを引き起こした。商社筋が資金を投入して2匹目のドジョウを掬おうとした。その結果、1週間に放映されるアニメの本数が増えた。また、NHK BSもアニメ枠を拡大、Wowwowもオリジナルコンテンツとして、アニメ枠を増やした。しかし、作られる作品量の割にはオタク心をくすぐる作品は少なかった。その原因として、ポケモンのテンカン発作事件があった。これは、試聴するテレビの大画面化及び、ハイビジョンテレビ等のノン・インターレステレビの描画フレッシュレートが60Hzになり、過度の画面色切替えが脳神経に対するインパクトの上昇を招き、事件の引き金を引いた。これによりテレビ東京は有象無象の団体からアニメ放映に関して、非難の集中砲火を浴びた。そして、オタク諸氏の間で通説だった「アニメのテレ東」は、公営放送のNHKよりも、厳しいアニメ放映ガイドラインを設定する事となる。その結果、教育テレビで放送している「コレクター・ユイ」はテレビ東京で放映出来ないというチグハグな事となった。 一方、話は前後するが、地上派ではV Gandamは放映当時の視聴率が4%程度と振るわず、同じアニメスタジオのサンライズが保有する放映枠の勇者シリーズにいたっては2%台という悲惨な状態だった。それでも、V GundamはLaserDiscのパッケージの売り上げで制作費を回収出来たのである。とはいえ、サンライズは広告代理店契約よりも早くに「Gundam X」で「ガンダム枠」を失い、「ガオガイガー」で勇者シリーズ枠を閉じる羽目になった。皮肉な事にそれが作品の質の向上に繋がったのである。どういう事かといえば、V Gundamによって「テレビ放映はパッケージソフトを売るための宣伝の為」という位置づけが可能となり、放映によって得るインセンティブによって、制作費が制限される事は無くなったのである。むしろ、パッケージソフトが売れるように高品質の作品を産み出すというマーケットが存在する事となった。それに寄与したのが地上波テレビ局が規制を強める中、驚くほどアニメ枠を追加してきたWowwowの存在である。テレビ東京においては画像を暗くしたりしても、回避できなかった放送コードによってサンライズ作品の「Cowboy Bebup」は全話放送は出来なった。それが、Wowwowで全部放送された。これは憲法21条1項の表現の自由に絡む問題ではあるが、表現の自由が私法上での制限がかけられるのは判例によっても明らかであり、放送局のガイドラインに放映作品は従わざるを得ない。ただ、この問題は「お子様に配慮する」という単純な問題ではない。政府・自民党による、「放送活性化検討委員会」や「報道番組検証委員会」による郵政省の放送免許許認可権限を背景にした意図的な放送規制や(平たく言えば、自民党に投票するという事は1人のオタクとして自殺行為である)、実質官業統制下の広告代理店によるスポンサーからのフィードバックによる放送規制も絡んで、放映内容に関する「自主規制」は厳しくなりつつあるのが現状である。奇しくも、地上波よりも視聴者の少なさが寄与してか、黒字化の執念なのか知らぬが、Wowwowはアニメ放映規制が緩いのである。ここで、オタク受けするアニメは概ねWowwowで放送される状態に突入した。 「今、そこにいる僕」は現実問題から有体分離するアニメ界に一石を投じた 2000年10月25日 「帰ってきたよマンガロン!」
愛すべき、マンガ、アニメ、特撮の濃い話 【出演】鶴岡法斎、大地丙太郎(アニメ監督)
![]() 【出演】鶴岡法斎、大地丙太郎(アニメ監督) え〜と、感想でも一つ。 鶴岡さんのトークは卓越していますね。アニメネタ・時事政経ネタも含めての「爆笑問題風トーク」はあれだけでも高座を聞きに行く価値があると思いました。 果てさて、大地監督といえば、「あかずきんチャチャ」辺りで名前を初めて拝見しました。あのチャチャの音楽CDにドラマが収録されていて、師匠にあたる高橋良輔監督が脚本を担当されていて、非常に面白い出来でした。音楽CD2作目では、ベターマン等の脚本で有名な山口宏氏が担当。これが、とてつもなくつまらないので驚いてしまいました。3000円もしたのに、帰りの車から投げ棄てようかと思った位でした。今考えてみると、高橋監督の作品との落差がそう感じさせたんでしょう。山口宏氏も外れもすごいが当たりもすごい人ですから。山口氏はエヴァンゲリオンを脚本担当された頃から内省的な世界観を追及するスタイルにスライドしました。現在、アンジェントソーマのストーリー監督?を担当されています。あの作品もエヴァンゲリオンを色濃く反映した内容になっています。ただ、内省的な世界を追及するスタイルもそろそろ飽きられてくるんじゃないかなぁとか感じています。 そして、何気なく観たWowow放映の「今、そこにいる僕」と出会いが訪れました。確かいきなり3話位からの放映を見たのですが、遠慮会釈ない暴力描写にひどく驚いたのです。それは、何故これが放映出来たのか?という奇跡にも近い状況に驚いたのです。 中断(>_<) 2003年11月4日 先日、「今、そこにいる僕」を全13話すべてを一気に見る機会が得られました。ララ・ルゥは自然界において水を司る女神であり、周囲を取り囲むキャラクターは「必死に生きる人間達」です。水の女神ララ・ルゥを巡り、他国への侵略と殺戮を繰り返すヘリウッド陣営があり、一方では子を産み育て、黄昏行く世界で生を刻む人達がいるのです。シスの生きざまは、暴虐に曝されたにサラに次の世代を育む決心を促します。そして、シスとスーンはララ・ルゥや共同体を守るために死に致り、同じく命をかけて戦い続けたシュウの思いをも併せたその衝動は、ララ・ルゥを突き動かします。ララ・ルゥは自らの具象化を解き、水を残して去っていきます。ララ・ルゥは永きに渡り人間の醜い争いを見続け、自らを絶望に心身を沈めていたのです。しかし、いかなる局面においても明日を信じて生をまっとうしようとする人間達触れ合うことによって、地球の滅亡が迫るなかにおいても、後世を築く最後の機会を与えるのです。すべての話はララ・ルゥの覚醒に収斂されていきます。それは、この作品の結節点が人の想いこそが最も強く尊きものであると規定するロマンティシズムの映像化にあるからです。 僕も他の「今、そこにいる僕」のファンページを構成している尊敬すべき方々と同様に、この作品を多くの人に見てもらいたいと考えています。そして、この作品を多くの人たちが、見ることによって戦争や生活について深く考え、社会に良きフォースがもたらされんことを切に願うのであります。しかし、メッセージを純化した形で伝える作品が市場で成功をするのは難しいようです。上記写真のイベントおいて、僕は大地監督に「今後、シリアスな内容の作品を創作されることはありますか?」と問うたら、「今後は得意とするギャグアニメで勝負していく」とおっしゃっておられました。監督はアニメの商業構造の問題と、収益を得ることを考えると「今、そこにいる僕」のような作品を製作するのは難しいというような事もおっしゃっておりました。 そもそも、まず第一にアニメ的文脈への一定の理解力を保持しつつ、「今、そこにいる僕」のような「未来少年コナン」が裸足で逃げ出すほどの強烈なメッセージ性を打ち出した作品を好んで見る人達は限られているでしょう。僕自身は「今、そこにいる僕」を媒介して脚本家の倉田英介氏や大地監督、そして、この作品に関った人達と相対して意思を汲み取りました。著作物との意思交流は極めてパーソナルな諸行であります。僕はこの作品を消化して自己の深化に使い、自らの精神世界を構築する一助になった事をとても幸いに思います。そして、それが出来ただけで良いのだと思います(^o^)。 |
| 登場人物 |
![]() シュウ 松岡修造 (岡村明美) |
![]() ララ・ルゥ
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![]() サラ
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![]() シス (松本梨香) | ||
![]() ハムド (石井康嗣) |
![]() アベリア |
![]() ナブカ (今井由香) |
![]() ブゥ (小西寛子) |
![]() タブール |
スーン
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参考文献 エヴァンゲリオンスタイル 森川嘉一郎編 第三書館 (元ネタばらしでGainaxの逆鱗に触れて、図画無断引用で告訴されている、 いわくつきのEvangelion解説書) |
